坐禅修行のすすめ-5泊6日で教えられたこと
三井住友DSアセットマネジメントnote編集部の佐古です。
今回は、「人生に1度でいいから坐禅修行をしてみたい!」と思い立ち、京都の禅宗のお寺へ修行体験に行ったときの忘れられないエピソードをお伝えします。
5泊6日の坐禅修行
それは9月中旬のまだじんわり汗ばむ時期でした。
「友人や同僚は、出世・結婚・出産・マイホームと、新しい人生を歩んでいくのに、私はまだなにも掴んでいない・・・。」慌ただしい毎日の中、私は意を決し、京都へ向かいました。
電車を乗り継ぎ着いた先は、突き抜ける青空と緑の山々が美しい小さな駅。そこからお寺のある山の方を目指し歩き始めたのですが、やがて「ポツ・・・ポツ・・・」と雨が降り始めたのです。傘を取り出す頃にはあっという間に土砂降りで、山の麓に着くころには傘も役に立たず。泣きそうになりながら歩き続け、お寺へ続く石段が見えた頃にはさっきまでの雨はぴたりと止み、びしょ濡れの自分が不自然なほど、静かな景色が広がっていました。
「修行はもう、始まっている・・・!!」そんな気がしました。
一日のスケジュール(馴染みのある言葉で記します。)
5:20 起床
5:40 歩行禅・太極拳
6:00 坐禅(25分×2)
7:00 読経
7:20 掃除
7:50 朝食
9:00 作務
11:45 坐禅
12:00 昼食
12:40 自由時間
16:45 坐禅
17:00 夕食
18:10 法話
19:00 坐禅(25分×3)
20:30 読経・開枕
22:00 消灯
「え、坐禅が7回もあるの!?」と衝撃でしたが、なんとも健康的なスケジュールで少しホッとしました。修行の説明とお寺の案内で、庭・食堂・禅堂・本堂と進むにつれ、緊張が増していきました。
寮へ着き荷物を下すと、ポケットに入っていたスマホを鍵の付いたロッカーへ入れ「新しい自分になってやるんだ!」と、スマホは一切触らないことを誓いました。
坐禅はとにかく痛い!
しばらくして坐禅が始まりました。これが痛い、痛い!座ってものの数分で足が痺れ始め下半身のあちこちの感覚がなくなりました。警策をいただく(棒で肩を叩かれる)のもこれまた味わったことの無い鈍い痛さ。無心になんてなれず、「早く終われ!」と心の中で叫んでいました。
坐禅中は“目は閉じない“というのは意外でした。坐禅の作法も本当に細かいのですが、回を重ねるごとに、木々の揺れる影、小鳥のさえずり、遠くの蝉の鳴き声に五感が研ぎ澄まされていくのが分かりました。
そういえば、坐禅中ふと、ある人の顔が浮かんだのですが、それが今の夫です。←本当です(笑)。
食事するのも痛い!
食事の時間は、一番神経を使った時間でした。
まず、持鉢(じはつ)という食器を一人一人与えられます。サイズが異なる3つのお椀で、一番大きい器にはお粥やご飯、二番目の器には汁物、三番目の器にはおかずと沢庵を取ります。食事を始める合図は住職が両手をこする音。その音を聞き逃さず、静かに手を合わせます。
食事中はもちろん正座、物音を立てていけないのはもちろん、咀嚼音にも気を付けなければなりません。持鉢を扱う作法に手こずり、痺れていく足の感覚がなくなった頃、住職が箸を置く音でようやく食事が終わります。最後に沢庵で食器を拭い、お茶で流し込みます。持鉢は洗いません。(笑)
味を感じる暇もなかったのも日が経つと慣れ、菜食のおかげか肌荒れやニキビが無くなりました。
白隠禅師坐禅和讃に足も心もしびれる!!
読経では「般若心経」や「陀羅尼」などを読み上げましたが、中でも「白隠禅師坐禅和讃」は私の中で「HIPHOPの王様エミネムを超えるのでは!!」と話題になりました。
「衆生本来仏なり」(私たちは元々仏である)いきなりサビから始まる今時なナンバーで、8beatからの16beatがクセになります。締めの大サビは「当所即ち蓮華国 此身即ち仏なり」(ここは極楽浄土であり、この私は仏である)と、なんともBigな事を言っており、聴く者を圧倒します。最初こそ難しい文字がぼやけて見え、遅れを取るまいと精一杯でしたが、次第に小気味の良いリズムにノリノリになり(実際は正座で静止)心はClub状態でした。今もたまにYouTubeで聴いているお気に入りの1曲です。
人の人生に触れた瞬間
最初は「どんな人が集まるのだろう」と下品な興味がありました。
自分でここへ来たという14、5歳くらいの男子。「何の本を読んでいるのですか?」と話しかけてくれたことから、彼の悩みを聞かせてもらうようになりました。家族のこと、学校のこと、将来のこと・・・とても丁寧な言葉で話してくれました。深く打ち明けてくれたのが嬉しく、彼の役に立ちたいと思い、読んでいた本を彼に渡しました。
義父の介護が終わり、義母の介護が終わり、夫の看病も終わり、大きな勤めを果たした、私の母より若いであろう女性。月の明るい晩に、百日紅の花が美しい庭で、たまたま行き会った彼女はポツリポツリと今までの十数年間を話してくれました。涙を流す彼女を抱きしめたいと思いながらも、ただ相槌を打ち、月を見上げる事しかできない自分もまた自分なのだと感じました。
長年勤めた会社を辞めた人、美術で食べていくことをあきらめ実家へ帰る途中の人、ここでの事が忘れられず再び訪れた人、みんな色々な思いを抱えこの場所へ来ていました。
猫は仏法の神様だった?
「明日下山します。見送りに来てください!」と、最後の晩にその猫に話しかけました。お寺に毎日あらわれる大きな白い猫。名前は「無い」らしいですが、みんなに可愛がられていました。
読書をしている私を窓の外から、作務へ向かう庭の途中も、坐禅に遅れぬよう急ぐ私も、その猫はいつもこちらを見ていました。
翌朝、まだ暗い中、身支度を整え庭に向かうと、白霧の中で門の前に佇む大きな白い猫を見つけました。
私はその猫にお礼を言い、名残惜しい気持ちを抱え、俗世に戻るためあちら側へと門をくぐりました。石段を一段一段下りながら何度何度も振り返り、そして最後の石段を下り終え振り返ると、その猫はいなくなっていました。
「あぁ、あれは神様だったのかな・・・」そんな気がしました。
最後に
無理をしない、無駄をしない、自分にできる事は限られているのだから・・・。この短い修行でそう教えられた気がしました。
資産形成も無理なく無駄なく、自分ではできない事はプロに任せて・・・。人生の不安は坐禅修行を、お金の不安は投資信託を活用してみてはいかがでしょうか。