人的資本を「可視化」しよう!
提供元:三井住友DSアセットマネジメント(責任投資推進室 シニアアナリスト 木本 泰久)
統合報告書での人的資本開示の義務化が今年度よりスタートしたことから、人的資本への注目度が高まっていることを実感します。
近年、ESG投資(環境・社会・ガバナンスにおける非財務指標を考慮する投資)が一般化して来ましたが、これまでは環境(E)の気候変動対応への注目が高かった印象です。それが、2022年4月よりプライム上場企業に対して、気候関連財務情報開示タスクフォース(TCFD)に準拠した開示が実質的に義務化され、気候変動に関する情報開示が充実したことから、市場の関心が社会(S)の人的資本や人権に向かっているという訳です。
人的資本と言えば、例えば当社の属するSMBCグループの社風を表す言葉として「人の三井、結束の住友」などがあり、以前から「個」であれ「組織」であれ人財が企業価値に強い影響を与えることは認識されていました。現在でも「我が社の強みは人財です」とアピールする企業は多いでしょう。
しかし、実際はどうでしょうか。人的資本とは人を企業の成長の源泉となる「資本」とみなし投資対象とする考え方ですが、従来は人的「資源」と捉えられることが多かったと思われます。資源として消費するため、発生する費用は「投資」ではなく「コスト」として捉えられます。
米国では1990年代にミシガン大学のデイビッド・ウルリッチ教授が提唱する戦略人事の考えに基づき、エンゲージメント向上や能力開発などの人財戦略を通して積極的に経営戦略に貢献する役割が人事部門に求められるようになりました。一方、日本においては一部の先進企業を除き、いまだに人事部門の役割が管理中心にとどまっているのが実態です。こうした企業の人的資本に関する取り組みの違いが、無形資産である人的資本の差となり、ひいては日米株式市場の時価総額の格差拡大の大きな要因になったと考えられます。
米国に遅れること四半世紀、こうした状況に一石を投じたのが2020年に発表された「人材版伊藤レポート」です。2022年には「人材版伊藤レポート2.0」も公表され、人的資本価値の「可視化」に関する重要性が改めて認識され、企業の情報開示に強い影響を与えています。本レポートでは投資家の立場から企業価値向上に繋がる人的資本の開示(可視化)について考察したいと思います。
人的資本情報開示に関する国際動向
まず、海外の状況はどうでしょか。人的資本の開示では欧州が先行しています。欧州委員会は2014年に非財務情報開示指令(NFRD)を発効し、従業員500人以上の企業を対象に環境や社会的責任、人権保護等を含む情報開示が義務づけられました。2023年1月にはこれを改正し、より多くの企業が対象となる企業サステナビリティ報告指令(CSRD)が発効されました。
米国では米国証券取引委員会(SEC)が2020年11月に投資家に対し投資判断に有益な情報を提供することを目的として、財務諸表以外の情報(非財務情報)に関する開示についての規制である Regulation S-Kにおいて、人的資本の開示を義務化する規定を設けました。
国内の動向
2021年6月に改訂されたコーポレートガバナンス・コードにおいて、人的資本に関する記載が盛り込まれました(補充原則3-1③)。上場企業は経営戦略の開示にあたって、人的資本や知財財産への投資等について自社の経営戦略・経営課題と整合性を意識しつつ分かりやすく具体的に情報開示するべきとされています。
これらの動きを受け、2023年3月末に終了する事業年度に係る有価証券報告書より、人的資本の情報開示が義務化されました。開示内容については内閣官房の非財務情報可視化研究会から、「人的資本可視化指針」が公表され、次の7分野にわたり各19項目の情報開示が推奨されています。
実際、多くの企業は有価証券報告書の「従業員の状況」欄において「男女賃金格差」「女性管理職比率」「男女別育児休暇取得率」などの定量開示を始めています。
投資家目線で求められる開示
では、投資家としては企業にどのような人的資本開示を求めて行くべきでしょうか。無論、最終的なゴールは投資リターンの向上にあることは異論の余地がありません。
一番重要なのは、やはり「可視化」です。ESGなどの非財務価値は財務指標に現れないため、何らかの形で情報を外部に提供して貰うことが必要になります。そのための第一歩は、対話による情報開示拡充の働きかけです。伊藤レポートにおいても「社外のフラットな視点で評価してくれる投資家と人財戦略について積極的に対話」することが提唱されています。
有価証券報告書で開示の始まった前述の定量データを対話のきっかけとして人的資本について企業の課題や強みを確認し、どのような人財戦略を描いているか議論を行うことが重要です。出来ればCHROとの対話が有効であると思います。ただし、日本におけるCHROの設置企業は全体の2割程度とまだまだ低いのが現状であり、むしろCHROを設置していない企業こそ意識改革の必要性が高いことから、イノベーションを生み出す原動力となる人財や人財戦略について経営トップと対話を行い、財務戦略に紐づいた人財戦略を立案・実行する組織や責任者の設置を働きかけていくことも必要です。
次の段階は、人財戦略の開示の働きかけです。多くの企業が中期経営計画を開示していますが、財務戦略とリンクした中長期の人財戦略を明示できている企業はまだ多くありません。事業拡大に必要な人財ポートフォリオのビジョンを明確にすることが重要です。それによって必要な人財の定義が可能となり、採用、育成、リスキリングなどの人財確保に関する戦術立案も可能となるからです。
そのためには、経営陣の若返りや若手リーダーの積極的な登用などが可能な柔軟な人事制度の導入なども働きかける必要があります。それが企業の活性化や、従業員エンゲージメント向上に繋がるのです。
最後はモニタリングです。戦略が適切に実行されているかを継続ウォッチし、建設的な対話を続けることが重要でしょう。また社外取締役などによる監督強化についても、働きかける必要があります。社外取締役比率やダイバーシティのような形式基準はもとより、取締役会の実効性が確保できているのかについても対話で確認する必要があります。
注意すべきは、人財戦略は長期的な視野に立って行うべきものであることから、短期的な目線で対策を求めることは避けなければいけない点です。経営層にアプローチして建設的な対話を積み重ねることで企業との信頼関係を築けるかが、エンゲージメント成果を大きく左右するでしょう。
好事例の紹介
最後に、人的資本開示の好事例としてオムロン(証券コード番号:6645)を紹介したいと思います。同社は経営戦略と連動した人財戦略を明確に説明しており、人的資本の可視化に取り組んでいます。同社は独自のダイバーシティ&インクルージョン(D&I)のコンセプトを掲げています。一般的にはダイバーシティは性別や国籍等の多様性を指しますが同社では「よりよい社会づくりへ挑戦する多様な人たちを惹きつける」と定義しています。またインクルージョンは「一人ひとりの情熱と能力を解放し、多様な意見をぶつけ合うことでイノベーションを創造し成果を分かち合う」の意味で使われています。このオリジナルのD&I を同社の求める人財像として人財戦略の中核に据えています。
また、可視化の観点での特徴は、人的資本価値を測る「人的創造性」という独自の指標を用いている点です。「人的創造性」は投下した人件費に対してどれだけの付加価値(売上高-変動費)が得られたのかを表す指標であり、同社はこの指標を中計1st stage(2022-2024年度)に+7%向上(2021年度比)させる目標を掲げています。それに向けた8つの施策とKPIも公表しており、投資家は施策の達成度を通じて「人的創造性」向上の進捗を確認することができます。
さらに、前述のD&Iコンセプトに基づく人財戦略が、財務指標にどのように影響を及ぼしたか検証を行っている点も注目すべき点です。外部機関(サステナブル・ラボ社)と共同でROICとの相関分析を行い、同社の人的資本施策がROICに重要な影響を与えることが示唆され、施策の妥当性が一定程度示されたと結論付けています。
このように戦略立案~実行~検証まで開示を行う姿勢は、多くの企業にとって良い見本となるでしょう。
※個別銘柄に言及している場合がありますが、例示を目的とするものであり、当該銘柄に投資するとは限りません。また、個別銘柄を推奨するものではありません。